アラフィフ自営業妻の独り言

ほそぼそ自営業を営む夫と貧乏暮らし。

続・二世信者、だった。

お久しぶりです。
先日の記事投稿から、かな~り、間が空いてしまいました。
健康上のトラブルがあったり、
娘の新生活がスタートしたり、
なにかと多忙中だったり…していましたが、
前回の続きを、と思うと、なかなか気持ちが乗らなかった事が、いちばんかもしれません。


子供の頃の生活は、「エホバの教え」が中心に動いていました。
週に三回、「集会」に出席して、聖書についての講演を聞き。学ぶ。
小さい子供が大人しくできなくて騒いだりぐずったりしてしまったら…、我が家の場合は帰宅してから「懲らしめ」が待っていました。お説教の後、お尻を叩かれます。


そして、学校のない日は親のあとをついて「奉仕」という名の宣教活動。家々を訪ねて聖書の教えを伝える活動がありました。
ピンポン、と呼び鈴を鳴らして出てきた家の人に母または父が聖書の教えを話している間、後ろで行儀よく黙って立っていて、時には聖書の一節を声を出して読んだり、パンフレットを差し出して家の人に受け取ってもらったり、していました。
そのときは、それがすごく嫌だったとか、そういう記憶はないんです。
たぶん、そうするのが当たり前だった、からかなと思います。


それよりも残念だったのは、学校のない日に友達が「遊ぼう」って訪ねてきてくれても、
「集会に行かないといけないから」などと断らなければいけなかったことのほうが、嫌だったし、遊べないのが悔しかったです。


「輸血拒否」が代表的な「血を取り入れること」への拒否については、
私が辛い思いをしたのは、給食の時のこと。当時、給食メニューに「クジラ肉」を使った献立が出ることがありました。…が、両親たちが言うには「クジラ肉」は血抜きが十分にされていないから食べてはいけない、と。母がよく確認しないで買ってきたハムの原材料にクジラ肉が入っていたと、父がすごく怒ったのを覚えています。
…そういう事情で、給食の献立表にクジラ肉のメニューが出る日は、「先生にクジラ肉は食べられないと証言しなさい」…と親に念を押されて送り出されたのですけれど…


当時の私は小学校一年生。その時の担任の先生がまた、とても怖い先生だったのです。
泣きじゃくる好き嫌いの多い子の鼻をつまんで、苦しくてたまらず開けた口の中に嫌いな食べ物を押し込む、…というその先生の恐ろしい行為を見たことがあった私には恐怖しかなく、
とうとう訪れた給食の時間…、教卓で一緒に給食をとる先生の前に進み出て、
「せんせい、クジラの肉は血が入っているので食べてはだめだってお母さんに言われました」
…半べそで、確かそのような風にしか説明できませんでした。先生はただの好き嫌いだと思ったのでしょう、「そんなこと言っても駄目だ」と取り合いません。「だってだめだって言われたんだもん」って泣きだしてしまったのを覚えています。
先生は許してくれず、どうしようもなくて静まり返った教室でしばらく泣いていましたが、給食を完食しなければ許されないのがわかっていたので…
…こっそりとハンカチにクジラ肉を包んで隠し、持ち帰ることにしました。


からになった給食のお盆を見て、先生は重々しく頷き、
「●●はえらかった」といい、私の頭を撫でました。
先生を欺いてしまった私は、何も言えませんでした。


家に帰ると、待っていた母に「どうだった」と聞かれて事の顛末を話し、ハンカチに包んだクジラ肉を見せたら、「えらかったね」と、褒められました。
母に褒められてようやく、クジラ肉を食べないで帰ってきて良かったのだと思いましたが、こっそりと肉を隠して先生に頭を撫でられたことは、何とも言えない微妙な記憶として、残りました。



そんな風に、幼いころから両親に熱心にエホバの証人の教えを叩き込まれましたが、
中学生後半くらいからか…、私は頭痛を理由に徐々に「集会」に行かなくなり、一家の中で私が一番はじめに、「エホバの証人」から離れました。
今色々な報道を見て、そういえばそのことについては両親にあまり責められた記憶がないなあ、と思います。それは、ありがたかったです。
やがて、両親たちも徐々に「エホバの証人」の活動から離れていきました。
離れていくことに対して、テレビで報道されているような嫌な行動をされた、ということはないと思います。
今も住んでいるこの土地で当時の「エホバの証人」の知人に会うことがあっても、感じよく、やわらかく接していただいています。いろいろな人がいるのかもしれませんが、私の中での印象は、「エホバの証人」の方々は平和的で品行方正な人が多い、という感じです。


…いろいろ考えると、また、筆が進まなくなってしまいました。
十分に長々とつづってしまった気もしますが…。
もう少し、続きます。